(1998米)大戦後、ヨーロッパは疲弊し東西が分裂しており、
西側としてギリシャ・トルコは支援しなければならなかったが、
イギリスは外国に支援する力は無く、アメリカに援助の役回りを頼むこととなった。
そして、1947年3月に「トルーマン・ドクトリン」となる。
「パックス・ブリタニカ」の終焉と、「パックス・アメリカーナ」の到来を意味した。
これが、47年6月の「マーシャル・プラン」となる。
約102億ドルの89%が無償援助で、米国企業を支援する腹もあろうが、
現実に西ヨーロッパで必要とされ感謝もされる。
それが、東のコミンフォルムやコメコンと対峙し、共産主義を抑えることで、
NATO陣営の基盤を支えた。
一方、48年のイタリア総選挙で共産主義に勝つために、
アメリカのイタリア系移民は故郷に「共産党には入れるな」という手紙を1000万通送った。
また、CIAが現金を片手に初の政治工作に乗り出す。現実の選挙活動資金の援助だった。
バチカンでは、ピウス12世が共産主義者でもあるカトリック信徒を多数破門した。
実に現実的な恐怖に対して現実的な手段を用いた闘いでした。