2018-11-01から1ヶ月間の記事一覧
(1998日) 生まれてすぐに水戸に移された七郎麿は、弘化4年(1847)8月、 江戸で暮らすことになった。母と会うこととなる。 第12代将軍徳川家慶は、一橋家の養子に七郎麿を迎えるよう老中首座阿部正弘に命じた。 御三卿一橋家の第8代当主昌丸が夭折しようと…
(1990日) 安政6年(1859)1月、西郷吉之助は菊池源吾と改め奄美大島での生活を始めた。 罪による罰ではなく、幕府から身を隠すための藩の措置なので、 生活に不自由はなかったのでしょうが、月照を残して生きたことや 安政の大獄での一橋派だった知り合いが心…
(1998日) 年内で『翔ぶが如く』を見終えようと予定を組みましたが週4ペースはきついので、 別の作品を入れることにしました。幕府の視点で評価の高い『徳川慶喜』を鑑賞することにします。 徳川慶喜、幼名・七郎麿(しちろうまろ)は天保8年(1837)に水戸藩…
(1990日) 安政5年(1858)11月、月照は吉之助の家に到着するが、藩庁が預ることとなった。 が、左右田宗之進の月照保護の言も空しく重臣会議で、「日向送り」と決まった。 幕吏に見つかったら大変とのことで、「藩境で殺せ」との意だった。 吉之助は後ろから…
(2018日) 明治6年(1873)11月、鹿児島に戻った西郷吉之助だったが、 西郷を慕い、次々と薩摩人が戻ってきた。 陸軍、近衛兵、警察などから600人の数に上ったという。 (別府晋介、桐野利秋、篠原国幹、辺見十郎太) 彼らは西郷を東京に引き戻そうと来た。 別…
(1990日) 安政5年(1858)7月16日、薩摩藩主島津斉彬が死去となる。 京にいた吉之助に手紙が届いたのが27日だった。 直に左大臣近衛忠煕に伝える。同席していた月照は吉之助の覚悟に気づいた。 その晩、薩摩藩御用達の旅籠・鍵屋に月照は吉之助を訪ね、殉死を…
(2016米) バイク事故で歩けなくなり引き籠ることになった青年。 絵に描いたような大富豪で城に住み仕事とプライベートを謳歌していた。 反動で生きる気力がなかったが、裕福なため、男性介護士と女性のメンタルサポートを受けるなった。 恋愛となるが、 TSUT…
(1985日)日本初の女優川上貞奴が主人公の実話。明治大正期の文化を学ぶつもりだったが、それだけではないようだ。 総集編と一つにまとめているが、前編・後編でいきます。 明治16年(1883)に完成した鹿鳴館で連日、舞踏会だったようだ。 明治19年(1886)、…
(1990日) 安政5年(1858)3月に京都で橋本左内らと次期将軍に慶喜を推す内勅を得る活動をした後、薩摩に戻ったようだ。 元豪商の森山新蔵宅での飲み会。 一部過激分子が「チェストー」と暴れ出す。 6月、藩主斉彬が兵を率いて上京するので、 禁裏守護の勅上を…
(2018日)正雪本人に成功の確信は無く、「天が味方するなら」という捨て身であっても、京阪と同時に決起し本格的に緻密に後世に恥じぬ戦いをしようとしたのでしょう。 西郷隆盛は身を任せて死ぬことを選んだが、 正雪は自らの実力をここで示す必要があった。…
(1990日)安政4年(1857)10月に江戸九段下の蕃書調所にハリスが滞在し、 ここで交渉が行われた。 (ハリス、岩瀬忠震 通事、川路聖謨 堀田正睦) ハリスが12月4日に条約草案を提出し交渉が始まる。 (井伊直弼、川路、橋本左内、堀田、松平忠固 松平春嶽) 江…
(2018日) 明治6年(1873)10月14日、帰国後初の廟議だった。 西郷が岩倉に朝鮮派遣の件を説明しようとするや大久保が反対紛糾。 江藤が、大久保と岩倉の罷免を要求した。 岩倉は西郷の朝鮮派遣に同意し、大久保は激怒した。 廟議を終え、大久保は「話が違う」…
(1989日)高山文彦監督で初の富野由悠季以外での作品だったそうだ。 中立コロニーに住む小4位の少年がジオン軍の工作部隊に協力することとなる。 隣の家の幼馴染のお姉さんが連邦軍に入りガンダムのパイロットとなったことは知らなかった。 ジオン軍のお兄さ…
(1990日) 安政4年(1857)3月27日、斉彬と吉之助は、御三卿の一橋慶喜宅を訪問した。 御三卿は将軍を輩出できるが10万石ほどの領地は飛び、藩はなく藩主ではなかった。 水戸藩主の徳川斉昭の七男から養子で一橋家当主となる。 第12代将軍家慶が次期将軍に考…
(1990日) 嘉永7年(1854)7月、島津斉彬の五男虎寿丸と近衛忠煕の娘信君と婚約により、 お由羅騒動(高崎崩れ)による処罰を受けた者は全て赦免されることとなる。 斉彬派の者たちは喜んだ。 が、閏7月、その虎寿丸が死去。5歳だった。 既に息子4人娘2人が他界…
(2001日) 文永8年(1271)、フビライは3度目の国書を博多に送ってきた。 第3代執権北条時宗の兄、時輔は「国を開け」と主張。 朝廷は、兄弟の対立を利用し時輔を朝廷の使いとしてフビライの重臣趙良弼と接触させた。 当然に、時宗激怒。 文永9年(1272)2月11…
(1990日) 安政元年(1854)3月6日、斉彬一行は江戸に着いた。 50日かけるところを40日余りとした。急いでいた。 日米和親条約締結の3日後のことだった。 (西郷、樺山、有村、大山) 嘉永5年(1852)に樺山三円は斉彬の茶坊主として江戸詰で各人と交流してい…
(2018日)結局、武田家は信親の血筋が残った。 世俗の権力は一時的で儚い夢なのやもしれません。 さすがに勝頼の兄弟として生存するのは難しかったが、 穴山信君の娘との間の子が信玄の血を残した。 勝頼にとっては、家臣団の信頼もない状態からの家督相続で…
(1990日)嘉永6年(1853)6月22日、島津斉彬は江戸より薩摩に到着。 11月には、帆船12隻 蒸気船3隻の建造許可を得た。 斉彬は、長崎にロシアのプチャーチンが通商を求めてきたことなど、 情勢を説明し、再度の江戸行きにあたり、軍艦建造を弟の久光に任せた。 …
(1989日)中立コロニーのサイド6内で、連邦軍は密かに新型ガンダムを開発していた。 が、ジオンは、少年の活躍により、その拠点が判明。 奪取か破壊かのミッションを与えられ実行するが、失敗した。 少年は、ザクのパイロットだったアルから クリスマスまで…
(2018日) 菊次郎(11歳)と、市来宗介(隆盛の妹、琴の子、23歳) 明治5年(1872)2月28日、アメリカ留学に出発。 明治6年(1873)5月、井上馨、「尾去沢銅山事件」を追求され、大蔵大輔を辞職。 他人の銅山を権力を使って奪い所有者村井茂兵衛を失意の死に追…
8月からほぼ毎日大河ドラマを見ています。 私の中で混乱してきましたので、再度、整理します。 ----過去視聴済 『独眼竜政宗』 (1987) 総集編全5回 『武田信玄』 (1988) 全50回 『秀吉』 (1996) 全49回 『毛利元就』 (1997) 全50回 『新選組!』 (2…
(1990日) 嘉永6年(1853)5月2日、斉彬、江戸を出立。 その2週間前に東インド艦隊は琉球に向かっていた。 鹿児島からの知らせで29日に岡山あたりで黒船が来たことを知る。 「至急、江戸にも早馬で知らせよ」と命じた。 斉彬の連絡より先に、艦隊は6月3日浦…
(1990日) 島津斉彬が藩主として薩摩に戻った翌年、嘉永5年(1852)正月、 謹慎中の大久保宅を訪問する吉之助。 大久保の妹、みね、きち、すま 長崎のオランダ商館長から報告された"来年にペリーが来る”という「別段風説書」の内容を知った徳川斉昭(水戸藩主…
(2001日) 建長3年(1251)5月、第5代執権北条時頼と葛西殿より時宗は誕生する。 葛西殿は毛利季光の娘で戦で敵となり父を殺した時頼との婚約は破棄されず、恨みを抱いたまま時宗を育てた。(本当は北条重時の娘なのでしょう) 時輔は時宗の兄で側室の子だった…
(1990日) 嘉永4年(1851)春、島津斉彬が薩摩に戻った。藩主としてだった。 高崎崩れ(お由羅騒動)から1年半だった。 斉彬は一同に就任挨拶をする。 痛み入る、島津久徳(ひさのり)、島津久宝(ひさたか)。 斉彬は名指しで、「この後もよろしく余に忠義を…
(1979日) 建仁3年(1203)9月7日、比企能員の変を経て源実朝(11)は第3代将軍となった。 祖父の初代執権北条時政が支えた。 頼朝以来の功臣を潰しにかかる。 元久2年(1205)6月22日、 畠山重忠 享年42 (ウルトラセブン) 時政の前妻の娘婿だったが、息子の重…
(1990日)ペリー来航より7年前の弘化3年(1847)イギリス艦船が通商と布教を要求し威圧してきた。 琉球から薩摩を経て江戸の島津斉彬は知ることとなる。 その頃、西郷邸は大家族だった。 3人の妹、安(やす)、琴(こと)、鷹(たか)、母の政佐(まさ) 祖…
(2018日) 明治4年(1871)11月12日、岩倉使節団が出発した。 岩倉は、西郷に、「何もするな」と言い残した。 薩長閥に不満を持つ人間たちは、できることはやりたかった。 山縣有朋を追求する、大隈重信、後藤象二郎、江藤新平。 山縣は、長州の同郷だった山…
(1979日) 建久10年(1199年)1月13日、頼朝急死により、18で頼家が第2代鎌倉殿となる。 争いがあれば、即決裁判で所領没収。親しい者に分け与えた。 当然に、不満となり、わずか3か月後に13人の合議制となった。 13名の中に安達盛長がいたが、息子景盛の妻…