(2018日)慶応2年(1866)6月に長州再征討となるが、隣接する芸州藩の不参加や
長州の武器の前に攻めることができず、7月に将軍家茂の死去で
将軍になりたくなかった慶喜だったが、孝明天皇の意思もあり、将軍就任。
慶喜はフランスのロッシュから援助と引き換えに薩摩を要求される。
西郷はイギリスのアーネストサトウと接触する。
この頃、慶喜の姿勢に西郷は倒幕を決意したようだ。
まず、久光に上京させ、兵庫開港問題で慶喜から雄藩へ実権を移すべく四候会議が5月に行われたが、先に慶喜に根回しされ失敗となる。
9月、大久保は長州に行き倒幕の挙兵を依頼、藩主は承知する。
これが慶応3年(1867)9月19日で、翌20には芸州広島藩の薩長芸の討幕軍の決定となる。
西郷や大久保は、岩倉に、倒幕の勅を依頼した。
が、慶応3年10月13日、慶喜は諸侯を集め、14日、大政奉還となった。
竜馬が暗躍したようだ。土佐や芸州が建白書を出す。