(1990日)政府は割れていた。
前回の明治6年(1873)10月14日の廟議で、大久保と西郷が激論となる。
翌15日、西郷の欠席。が、廟議では3000の近衛兵の動きを警戒し、
西郷の訪韓を再確認することと、三条と岩倉は決めた。
それで、大久保が退出。
さすがに、岩倉は大久保に謝罪の手紙を出しもしたようだ。
16日が休みで、大久保は17日に三条邸へ参議の辞表を出した。
木戸も出し、話を聞いた岩倉も辞めると三条に言ったようだ。
西郷らの上に乗っかって太政大臣を続ける神経は三条にはなかった。
「1日待ってくれ」と決断の日を延ばした。
が、三条は、18日朝に倒れた。
が、この機を利用して、木戸と伊藤が大久保を復活させ、
西郷の訪韓を阻止し、一蓮托生で辞職に追い込もうと画策した。
さすが、政治家だった。(10月18日)
大久保の策で、天皇から直接、三条の代理を命じれば、
以前の決定を覆せるという作戦だった。
23日の岩倉の代摂による廟議の前日の22日に
板垣、西郷、江藤、桐野が岩倉邸に突撃するも、岩倉は毅然と主張。
23日、西郷、辞表を提出する。
西郷、大久保邸にて、「鹿児島に帰る」と伝える。
大久保は激怒。東京で陸軍大将として全国の柱として存在して欲しかった。
「子どもより始末に悪い」
さすがに、伊藤が「言い過ぎでしょう」と諫めた。
翌朝、24日、従道邸。従道宅も帰る準備に入っていた。
が、西郷は従道には大久保の側にいるように命じた。
11月10日、西郷、熊吉と共に鹿児島に帰着。
NHKオンデマンド 翔ぶが如く 第2部第11回 西郷、野に下る
自宅では、お腹が出てきた妻のいと、寅太郎、午次郎、
そして、戊辰で死んだ弟の吉二郎の後妻 園(その)と
この子たち美津と勇袈裟が迎えてくれた。