(1990日)
島津斉彬が藩主として薩摩に戻った翌年、嘉永5年(1852)正月、
謹慎中の大久保宅を訪問する吉之助。
大久保の妹、みね、きち、すま
長崎のオランダ商館長から報告された"来年にペリーが来る”という「別段風説書」の内容を知った徳川斉昭(水戸藩主)が老中阿部正弘を訪れた。
祖父龍右衛門と俊(吉之助の最初の妻、父は伊集院兼善、)
祖父は孫の嫁に語った。
龍右衛門の兄が江戸藩邸で公金横領の疑いをかけられたが、
裁きの前に切腹した罪とのことで47石の扶持は名だけとなり無くなった。
加治屋町一の貧乏となったそうだ。
15名の江戸留学生が決まった。吉之助は願書を出さず、友人を見送った。
吉之助は、青年のリーダー、二才頭(にせがしら)も務めたので、
周囲は当然に有資格者と思い、上司にも願書未提出を叱られたが、
この年、祖父、父、母が相次いで他界し、吉之助の悲しみは深かった。
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