(2022日)
建保7年(1219)1月27日、実朝が公暁により他界。
将軍位が空白のところを実衣が息子に継がせようと野心を抱いたため、
時元を喪い自らは一室に閉じ込められていた。
6月、京から三寅を引き受け、政子が尼将軍となったことで、
政子を支えることとなった。
7月に、源頼茂が将軍位の件で不満をもち内裏への放火となり、
建替の費用を全国の御家人に出させるとのことだが、
上皇の西面の武士が何らかの理由で頼茂を先に襲撃したとのことだった。
上皇からの取り立てにどう対処すべきか困り、御家人が問うてくる。
慈円は上皇から義時への呪詛を頼まれるも、三寅が元服するまでに必要だと説明。
が、鎌倉の息のかかった者は不要と外された。
着袴の儀にて、義時が着せることで最高指導者であることを示す。
藤原秀康は大番役の三浦胤義と密談。義時を討つにあたり三浦義村と通じていれば容易だと語る。兄義村の意を受けて京に来たこともあり、胤義は勝算を確信する。
承久3年(1221)5月15日、京都守護伊賀光季が藤原秀康に討たれる。
かつて後白河院の側近で鼓判官を経、追い出され、頼家に蹴鞠を教えていた平知康だった。
芸は身を助く波乱な人生だったが、院宣乱発で捕えられる。
のえの兄伊賀光季が討たれたことで、義時を責める。
大江広元が、頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い…、という文章を作成するも、
政子は自分の言葉で語りだした。上皇の狙いは義時であり首を差し出せば戦とならないこと、そのために義時が決断したが、それをすれば永劫に西に降ることになるので、
坂東が一致団結して戦うことを求めた。
義時は、かっこいい死に方の機会を奪われてしまう。