徳川慶喜 第32回~第33回

(1998日)

文久3年(1863)末 慶喜側近、中根長十郎が斬られる。水戸や長州の尊攘派によるものと考えられた。

この年8月に政変により長州系が排除され、将軍後見職の辞任は受理されず上洛の命が下り、慶喜軍艦奉行勝海舟の順動丸で江戸から2昼夜で大坂へ着き京へ入ったようだ。

参与会議が招集される。開国が国是となるかと思われたが、老中が攘夷を慶喜に説得。

昨年の長州による攘夷決行の勅許で、仕方なく横浜鎖港を決め諸外国に使節団を送っている最中の方針変更は幕府の威信と沽券にかかわり全老中の意だった。

止む無く慶喜は中川宮に幕府から横浜鎖港は難しいと報告するが厳しく命じてくれるよう頼み、次の朝議で中川宮はそう演じた。

が、次の参与会議で朝議での横浜閉鎖の件は無かったことになったと久光が言い出した。中川宮との連絡役の薩摩藩士の言だった。

慶喜は、中川宮邸に行き本人に確認すると言い出し、皆で行く。

話を聞いた慶喜は酒も加わりキレ、薩摩に台所を任せていることを指摘し、その役の交代を告げ、また、島津久光松平春嶽伊達宗城の3人は天下の大愚物と罵る。

これで参与会議崩壊、久光は西郷に軍賦役で京を任せ薩摩に戻ることとなった。

慶喜は、将軍後見職を辞め摂海防禦禁裏御守衛総督となる。

元治元年(1864)6月となり、新撰組池田屋を襲撃する。

第32回 慶喜の悪酔い

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第33回 池田屋騒動

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NHKオンデマンド 徳川慶喜