(2014日)18で備後福山藩10万石の藩主となり、天保の大飢饉では全国的に30万の死者がでるも、彼は貯蔵していた米を配給し餓死者を出さなかった。
25で老中に抜擢されるキレ者だった。
1853年にペリーが来航し、筆頭老中の阿部が対応することとなる。
ペリーの「通商」の要求を撥ね「開国」に抑えることに成功する。
ペリーとの交渉は林復斉にさせた。
その7年前の46年にもアメリカ東インド艦隊のビドルが来ていたが、
帆船だったので軽く追い返した経験はあった。
55年に締結された日露和親条約は川路聖謨にさせている。
その他も含め全体を把握し調整していたのでしょう。
外国の通商要求に対して、阿部は幅広く外様や市井も含めて意見を求めた。
これが日本人が国民意識を形成していく画期的なこととなる。
彼は、洋学所、講武所、長崎海軍伝習所を作り、
それが東京大学、陸軍、海軍となった。
明治維新の原型が彼によって作られたと言っても過言ではないようだ。
eたち 阿部正弘 開国不屈の外交戦略20140227 投稿者 okura1919ppp