BS歴史館 徳川家康と関ヶ原の戦い 最後に勝つ男の条件

(2012日)「関ヶ原の戦い」の前日の1600年9月14日まで、

誰も関ヶ原が舞台となるとは知らなかったし、1日で終わるとも思っていなかった。

少なくとも20日以上、あるいは数年かけて戦が続くと考えられていて、

黒田官兵衛が九州、伊達政宗が東北に野心を試みた。

1600年春に徳川が会津上杉景勝攻めとして大阪より5万で出発した。

その後に、西で石田三成が挙兵、5奉行5大老の大半を味方につけて

石田が有利かと思われた。

が、3日前では、石田が愚痴の手紙を送っているなど、

家康のダイレクトメール工作は浸透していた。

9月15日8時に始まるが、家康の凄まじいところが、

内通していた小早川秀秋と毛利吉川に威嚇射撃を実行したことだった。

キレて約束を反故にされたら危険だったが、

この神経は三成では無理で、そこに秀秋も毛利吉川も畏敬に震えたのかもしれません。

戦後の領地配分でも、没収した領地の8割が豊臣系に配分され、

全国的に見ても、徳川系が3分の1を東日本に有し、

東西の住み分けで、中央集権でない地方分権型の支配を実現した。

信長・秀吉と違い、家康型の人間は忍耐でじっくり努力型とイメージしがちだが、

家康自身は、反射神経はずば抜けていた。

今さら「関ヶ原」かと避けてましたが、面白かったですね。


BS歴史館 : 徳川家康と関ヶ原の戦い / 最後に勝つ... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus