その時歴史が動いた 戦国にかかげた“愛” 〜北の関ヶ原 直江兼続の決断〜

(2009日)1560年に生まれ5歳で10歳の上杉景勝の小姓となる。 さすがに優秀で、1578年の謙信の死後の後継者争いで活躍し、 20そこそこの青年がNo2となったようだ。 82年に柴田勝家を総大将とする織田軍団が魚津城を攻め落とした。 3800人の将兵が死亡し、軍神謙信の前に非力を痛感したようだ。 が、6月に「本能寺」となり織田軍団は引くこととなり助かった。 その後、秀吉時代となり、兼続は石田三成と親しくなり、 景勝も五大老の1人となり、越後から会津120万石への栄転となった。 東北の伊達や最上、関東の家康への睨みのための要地だった。 そこで徳川に因縁をつけられ、兼続は正論+「買い言葉」を送り付けた。 が、1600年9月末に「関ヶ原」の負けを知り、翌年に景勝と共に家康に降った。 米沢30万石と4分の1となるも、 内政に勤しみ、領民に慕われ今日まで語り継がれた。 乱世にあって、義を捨てなかった、歴史を面白くさせる方でした。
直江兼続の決断 : 北の関ヶ原 / その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus