(1990日)明治3年(1870)末に、東京に来るよう弟の従道が薩摩へ帰郷。
正式に勅使として岩倉具視、副使に大久保が来る。
西郷は「25か条の建白書」を出し岩倉を困らせた。
翌4年(1871)1月3日に薩摩を発つ。
その前に、鶴丸城で挨拶をする。
国父久光は新政府を薩摩の言いなりにしようとする。
兵を率いて上京することに久光は同意するものの、
大久保が考え西郷が同意した廃藩置県の目的は知らなかった。
文久2年(1862)の寺田屋事件での説得に向かった人物だった。
大村益次郎殺害犯と付き合いがあり、また処刑を停止している豪傑だった。
大久保の息子2人が東京へ行くことになり、
菊次郎も行くこととなった。
気を遣わず勉強できるという大久保の妻満寿の計らいだった。