(1990日)
前回、文久2年(1862)4月23日の寺田屋事件の回だった。公家は久光を評価する。
近衛忠煕は久光が京を離れることを危惧し、
久光は幕閣を上京させるよう伝え、近衛はご満悦だった。
盗み聞きする旅館の女将
薩摩の山川港の船で軟禁されていた吉之助に、弟の吉次郎と小兵衛がきた。
10日前に祖母が他界したこと、吉之助は徳之島、新八は喜界島との沙汰だった。
森山新蔵には無かった。
(森山新五左衛門)
2階にいた薩摩や久留米、土佐藩士ら各藩士は帰藩することになるが、
6名が死に、2名が切腹、1名が帰藩に服さず切腹。9名が烈士とされる。
また、引き取りてのない浪人を薩摩が預ると称して殺した。
帰藩した21名の薩摩藩士の中には、西郷信吾、大山巌、伊集院兼寛や、
朝廷は幕閣の上洛を求めたが、幕府は引き延ばした。
しかし、近衛や三条実愛は京の治安上反対した。
大久保は岩倉具視を訪ねた。
先客が長州の重役で、禁裏守護のお役目と勅諚の斡旋を岩倉は頼まれたが、
大久保は、長州を禁裏守護にし、久光の江戸行きの話に進めた。
翌日に、岩倉が薩摩藩邸にお忍びで訪れる。
岩倉は大久保を飲み込みが早く主人思いと褒めた。
久光は、「君命は命よりも重し、が薩摩の家風」と応え、岩倉は感服する。
その頃、息子の切腹を知った森山新蔵は、元豪商ではあったが、武士らしくと切腹する。
(暑苦しい演出だった)
の「三事策」で久光は勅使大原重徳に随従し江戸へ行くことになる。
5月20日、小松帯刀は家老同様御用扱、大久保は小納戸役頭取と出世となる。
5月22日、勅使が江戸へ向かった。
江戸時代全般において無力だった朝廷が、薩摩兵1000人の武力を率いて
幕府に威光を示す大事件だった。
久光を斉彬に比して無能呼ばわりするが、無能でできることではなかった。
都会に洗練されていない古いタイプの人間ではあったが、
この段階では確実に時代を進めていた。
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