渋沢雅英 曾孫が語る渋沢栄一の真実

(2020日)

渋沢雅英

渋沢栄一曾孫/公益財団法人渋沢栄一記念財団相談役

※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)

(1)ゆかりの地で聞く「奇跡の10年間」

(2)激動の幕末から明治へ

(3)新しいリーダーの誕生

(4)「論語と算盤」が開いた近代日本

(5)渋沢栄一岩崎弥太郎

(6)日本とアメリカにかける橋

(7)「人間として」生きている人

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10mTV 渋沢雅英 曾孫が語る渋沢栄一の真実

渋沢栄一は『徳川慶喜公伝』全8巻を30年以上かけて自分で編纂したように、

孫の敬三は68巻4.5万の『伝記資料』を出版したそうだ。

栄一は文久3年(1863)に血洗島から京に向かい慶喜公に仕えた。

高崎城乗っ取り計画でテロリストの指名手配を受けていたが助かった。

『奇跡の10年』が始まる。年商1万両の商売の経験と知恵を一橋藩に応用し成功。

慶喜が将軍になったことで幕臣となり失意するも、フランス行きに喜ぶ。

1年半の学びの後、帰国し静岡藩へ過ごすも、大隈から呼ばれ大蔵省の局長となる。

廃藩置県も含め数々の懸案の実務を担ったようだ。

井上馨、大隈に「できる奴」と買われる。

国立銀行条例を起草し自分で「第一国立銀行」を作り「総監役」となった。

三井家からも岩崎弥太郎からも誘われたそうだ。

江戸時代の論語は金儲けを否定していたが、『論語と算盤』を両立させた。

多くの財界人、外国人と交流を持ち、1000人も青淵文庫に招いたそうだ。

孫文蒋介石袁世凱も交流があったという。

日本資本主義の父の軌跡を曽孫の雅英氏が語られる非常に有意義な時間でした。