(2021日)
19世紀も終わる頃、栄一は、喜作と惇忠を連れ慶喜を訪ねた。
慶喜は、平九郎の死、惇忠の心労や冨岡製紙場での働きを知っていた。
惇忠に対し、労う立場には無いが尊いことと感服している、と話す。
惇忠は、青年の頃遠くで見た少年七郎麻呂の姿を思い出し涙する。
1901年1月2日、惇忠、他界。
また、山形県酒田の米問屋加賀屋に八代加代が誕生。
また、最上川沿いの貧農谷村作造と妻ふじに三女しんが誕生する。
後、昭和天皇は83歳となる頃、彼女ら明治の女性の苦労を知る。
栄一は、アメリカでは金融王として知られるようになった。
民間人ながら、ワシントンでセオドア・ルーズベルトとも会う。
栄一が韓国に出張中だが慶喜が遊びに来ていた。
篤二は栄一が慶喜の伝記を残したいという思いを伝える。
この頃、栄一は養育院の数を増やしたり、
日本女子大学の設立に協力したりしていた。三井から大阪の両替商に嫁いて
鹿島銀行や炭鉱、大同生命の経営に尽力した、後にクリスチャンとなる広岡浅子のお願いに応えていた。
1903年、児玉源太郎や井上馨から財界への協力要請があり断れなかった。
仁義の戦争は後に経済を発展させると普仏戦争や負けたフランスを例に出し、
公債引受を促した。
が、この演説の後倒れ、死を覚悟するよう医者に求められた。
明治6年の第一国立銀行開業時から見込んでいた佐々木勇之助に第一銀行頭取を託した。
後で聞いていた篤二は、死後の心配をし伊藤博文や井上馨を呼ぼうとする父の姿に圧倒され自信を喪失する。
慶喜もきており、あなたのように逃げたいと暴言を吐いたようだ。
慶喜は、死なないでくれ、何でも話すと頼む。
1905年9月5日、ポーツマス条約調印。
小村寿太郎は笑ってくださいと言われても笑えなかった。
帰国後の批判と身の危険も分かっていた。
慶喜の聞き取りが開始された。川村恵十郎はいなかった。
最前列が栄一と喜作、猪飼勝三郎となっていた。
慶応3年末、「薩摩討つべし」と家臣たちがキレた。
欲望は道徳や倫理よりも強く、ひとたび敵を思えばいくらでも憎み、
残酷にもなれる。栄光か破滅か運命の導くままに引きずられていく。
どうすることもできず、勝手にせよと言い、鳥羽伏見が始まった、
失策であり後悔している、隠遁は最後の役割だったと思う、と語る。