(2022日)
治承4年(1180) 8月17日に挙兵した頼朝だったが、目代山木兼隆は討ち取ったが、
石橋山の戦いで敗走する。
頼朝を支援してきた比企は知らせを受け失意。
梶原景時は山中を探し頼朝を見つけたが、
しばらく考え見逃すことにした。頼朝は後、当然に重く用いる。
(武田信義)
信玄の先祖で、甲斐源氏。
北条時政と義時が加勢の依頼に向かったが、
源氏の棟梁が頼朝でなく信義であると認めることが条件だった。
三浦義村が船で頼朝を待っていたが、そこに時政と義時が合流。
三浦勢は平家方についた畠山重忠に見つかったが、
お互い会わなかったことにしようと言ってくれた。
が、和田義盛が背後を襲い騙し討ちとなってしまった。
八重が伊豆山権現に来て親切に頼朝が無事だと政子たちに教えたが、
千鶴丸の死を知る。父伊東祐親の命であることを悟った。
頼朝たちは、三浦沖から房総半島へ向かった。
安房の安西景益に匿われ眠ることができた。
仁田から観音像を受け取り、宗時の死を悟る。
時政は義時に兄宗時の想いを受け継がせ先に死ぬなと語った。
頼朝は心が折れかけていたが、義時は頼朝抜きでも戦い続けるとした。
石橋山で死んだ者たちや兄宗時を受け継いだ義時の言で頼朝は回復し、
軍議を行った