(2018日)文久2年(1862)は薩摩にとって事件が重なる。
率兵上京した国父久光による「寺田屋事件」
そこから江戸に行き「文久の改革」となる。
その帰路に「生麦事件」だった。
大名行列を横切る英国人を奈良原喜左衛門がまず切り、
狼狽える将軍家茂に対し、将軍後見職の慶喜は、支払い拒否を主張。
「家臣のために徳川があるのではなく、徳川のために家臣がいる」と助言。
薩摩では、英国との戦争の覚悟を語った大久保に久光の薩摩魂が揺さぶられた。
大久保と小松帯刀が戦の準備をすることになった。
事件の責任を取ろうと切腹しようとしていた海江田と奈良原を止め、
「寺田屋事件」で降った西郷信吾らは謹慎を解かれ、戦を前に藩内が固まる。
事件から約1年後の文久3年(1863)7月薩英戦争となる。
英艦隊が引き返したことを西郷は沖永良部島で知る。
この頃、公武合体を天皇を中心とするか幕府を中心とするかと利害が異なる中、
薩摩から調整能力のある西郷が沖永良部から戻されることとなったようだ。
元治元年(1864年)2月に信吾が迎えに来て、島を去る。
川口雪篷がナポレオンを西郷に教え、「革命」を意識させた。