(2024日)
寛和2年(986)、兼家は安倍晴明の策を採用。
花山天皇の出家、孫の践祚、自分が摂政となる日を6月23日と決める。
道綱も呼び役割を与えた。
兼家としては、花山天皇が皇子を産む前に出家、懐仁親王の践祚。
次の東宮に別の孫である冷泉天皇と娘超子の子居貞親王とする計画だった。
出家に義懐は反対する。道兼は自分も出家のお供をすると言う。
この頃、花山天皇の伯母や姉も他界、母も幼くして亡くしており、
花山天皇自身は出家に積極的ではなかったものの沈まれていたようだ。
源明子は道長の従姉にあたる醍醐源氏高明の娘だが、既に父は他界。
後ろ盾となる訳ではなかった。
道長は駆け落ちを考えたが、まひろは偉くなって直秀の死のような理不尽の無い社会を作って欲しい、それが宿命だと説得。